【※1】『紅 kure-nai』コミックス 第1巻
ジャンプSQ.にて「創刊号〜2012年7月号」まで連載された、ライトノベル(スーパーダッシュ文庫)を原作とするコミカライズ作品。原作は片山憲太郎先生、脚本を子安秀明先生が担当。『終わりのセラフ』でお馴染みの山本ヤマト先生が漫画を、降矢大輔先生がコンテ構成を手がけている。

——「集英社」と「講談社」、2つの出版社にまたがって始まった「セラフプロジェクト」ですが、このプロジェクトはどのようにして誕生したのですか?

栗田:懐かしい話ですね…。最初はジャンプSQ.さんの方で、『紅 kure-nai』(※1)の完結に際して、山本ヤマト先生の新作を原作ものでやりたいという話になったのが、ことの発端だと聞いています。『紅 kure-nai』がもともと小説のコミカライズだったこともあり、今度は原作ものをやりたいという話になったらしく、当時知り合いだったジャンプSQ.の編集さんから「原作者を探している…」と相談を受けたんです。一方で、僕も講談社ラノベ文庫の立ち上げで、ちょうど鏡先生に連絡をとっていたのがこの頃です。

:そうそう。僕はKADOKAWA・富士見書房でデビューしてから、70冊くらいずっと富士見(ファンタジア文庫)で書いてきたんだけど、そんな時に栗田さんと出会ったんですよね。それで挨拶も兼ねてご飯を食べに行った時に「いきなり小説の話だけしたら忙しくて断るんでしょ?」みたいな感じで、栗田さんが突然、集英社の話をしだして(笑)。

栗田:「講談社と集英社で同じ企画の小説とマンガをやるって面白くないですか?」って話をしたら盛り上がって、その翌日にその編集さんに連絡をとったら「それ面白そうですね!とりあえず一回会って話しましょう」と、話がまとまったんです。

:その時はまだ何をするかは決まってなかったんですけどね(笑)。

小菅:それが2011年の4月くらい?

:そう、今から4年ぐらい前。それで、2012年の9月からマンガの連載が始ったんです(※2)。

小菅:それまでに1年半くらいかかってるんですよね。

:その間、原作を何本も書きましたね。

小菅:10稿以上書いていたんでしたっけ?

:たしか、連載までに15稿くらいは書いていたと思います。

栗田:その中には、今とはだいぶ違うものもありましたよね!なんでしたっけ、あの…。

:もしかして、「妖怪」や「山のほこら」が出てきたやつ?

栗田:そう、それです(笑)。でもそうすると、海外で売れなくなっちゃうからって、「バンパイア」にしたんですよね。

:実を言うと、最初は海外を目指してました(笑)。

小菅:話を聞けば聞くほど、試行錯誤していた1年半の歴史は長いですね。実のところ僕は第1話ネームのOKが出たところから担当を引き継いでるんで、その辺のことは、話でしか聞いていないんですよ。

:そういえば、そうですよね。

小菅:山本先生、降矢先生とは以前『紅 kure-nai』の時に担当をしていて、ちょうど担当を外れていた時に「セラフプロジェクト」が立ち上がり、連載が始まると同時に、また担当に戻ったという経緯がありまして。山本先生と降矢先生とは面識があったんですが、鏡先生とはその時が初対面で…。

:それでいきなりぶつかってね(笑)。

(一同笑い)

:いや、でもあれが良かったんですよ。結果として作品がすごく良くなったんで。

【※2】ジャンプSQ.「2012年10月号」
『終わりのセラフ』第1話を収録した、記念すべき一冊。表紙では、第1話には登場しないシノアが、密かに先行公開されていた。

小菅:マンガと小説の作り方は、ちょっと違いますからねぇ。

:僕のモチベーションとしては、富士見(ファンタジア文庫)以外でやるのが初めてだったのと、マンガの原作も初挑戦だったこともあり、とにかく「一発やってやるぞ!」という思いが強く、正直、原稿のリテイクとかは全然大丈夫でしたけどね。ただ、今思うとネームを書いてくれた降矢さんは、本当に大変だったと思います。

栗田:一年半もボツが続いたら、さすがにキツイですよね。

小菅:連載会議を通るまで、15稿もプロットを書くのは生半可じゃできないですよ。

:あの時は、とにかく夢中で書いてましたね。そうして書いてきて、第1話目がジャンプSQ.に載ったあと、小菅さんから連絡がきて、最終集計でアンケートが1位になったと聞いて……。

小菅:そうでしたね。

:本当に、小躍りしました!!「良かったーー」って!あの感動は富士見(ファンタジア文庫)で、「龍皇杯」を獲った時くらいの喜びでしたよ(笑)。